東京五輪エンブレムが可もなく不可もない凡庸なデザインになった理由
先日、初めて喫茶ルノアールに行って
「料金に驚きメニュー表を3度見したデブ」こと、まこちゃんです(笑)
今日は、東京オリンピックのエンブレムのデザインについて思うことを書いていこうと思います。
今さらかい!と突っ込んだあなた・・・ホントその通りです(笑)
ただ、どうしても書いておきたいことがあったので、今さらながら筆を取ったしだいです。
みなさんもうご存知だとは思いますが、新しく選ばれた東京五輪エンブレムです。
東京2020大会の公式エンブレムが決まりました。このエンブレムのもと、多くの皆様とともに、大会の成功という大きな目標に向かっていきたいと思います。皆様のご支援をよろしくお願いします。 pic.twitter.com/fM8FAjVCKp
— 舛添要一 (@MasuzoeYoichi) 2016年4月25日
残念ながら、私には美的センスというものが欠如しているので、基本的にこういう芸術的なものに対する評価はできません(笑)
しかし、世間の声を聞いてみると地味だとか凡庸だとか決していい評判を聞きません。
なぜなのでしょうか?
前回の佐野研二郎大先生のエンブレムデザインでの反省点を生かした結果、出来る限りオープンに、多くの人に、公平に選考を経て、選ばれたものなのに・・・。
私の答えは
様々な人の意見を取り入れて、様々な人に選ばせて、様々な人に好かれるようなモノは
しょうもないモノになるのです(笑)
佐野研二郎によって東京五輪エンブレムの選考方法が「公平性」重視になった
佐野研二郎大先生のエンブレムデザイン事件のときに、問題になったのが選考方法です。
一部の実績あるデザイナーたちしか応募資格がなく、その選考方法も非常にクローズドなものだったことが問題として取り沙汰されました。
そこで、新しいエンブレム募集のときはとにかく「公平性の担保」が重要命題とされました。選考方法は以前よりもオープンになり、誰もが応募資格を持ち、様々な人の意見を取り入れられた選考になったのです。
その結果、選ばれたのがあの地味で、凡庸なデザインだったのです。
本当に「いいもの」を選びたいなら「公平性」なんかは必要ないのです。
「みんながいいもの」は、本当にいいものではなく「悪くないもの」
公平性を追求して選考した結果、選ばれたものは「誰もがいいと思うもの」になったのでしょうか?
「誰もがいいと思うもの」になっていないと私は思います。
なぜなら、「誰もがいいと思うもの」とはこの世に存在しないからです。
存在するのは「誰もがいいと思うもの」ではなく、「誰もが悪くないと思うもの」だけなのです。
つまり、公平性の追求によって選ぶということは、独創的な賛否があるようなデザインは避けられて、それならまあなんとか、というレベルのデザインが選ばれていくのです。
その結果、新しいエンブレムデザインは無難で凡庸になったのです。
なぜならあのデザインは
「誰もが悪くない(可もない不可もない)と思うデザイン」に近いからです。
「公平性」を重視した選考では「本当にいいもの」は生まれない
「本当にいいもの」をつくりたいと思ったときに、「公平性」というものは邪魔でしかありません。
「本当にいいもの」というのは、それをもの凄く大好きな人と、それがもの凄く大嫌いな人がどちらも存在するものなのです。
「みんなに嫌われないこと」は出来たとしても、「みんなに好かれる」ということはありえないのです。
公平性からは本当にいいものは生まれないのです。
今問題になっている、舛添都知事も選挙という「公平」な制度によって選らばれた人間です。
その結果、あのざまです(笑)
「本当にいいもの」を選びたい場合は、独断と偏見で選んだ方が、高い確率で「本当にいいもの」をが選ばれると私は思います。
100人中90人はクソだと思っても、10人は熱烈に愛してくれる。そんな「本当にいいブログ」になるようにこれからも精進していきます。
「本当におもしろいもの」を目指しているその姿勢がいい!
クレイジージャーニーは、本当にイっちゃってる人に密着して紹介する「本当におもしろい」を目指している素晴らしい番組です。この番組を好きな人と嫌いな人はもの凄く別れると思います(笑)